荒木部長コラム

  

部分から全体へ

  

高校生のときの英文解釈テキストの小冊子で読んだエッセイの中に「帽子屋の語る人生」みたいな話があったのが印象に残っています(作者や、正確なタイトルは忘れてしまいましたが)。誂えの帽子をつくる帽子屋の主人は、頭の形でその人のひととなりを想像し、そこにその人の人生が反映されているというのです。
昔から「骨相学」のようなものがあるように顔や頭の形にその人の性格などが現れる、顔や頭を見ればその人の性格がわかる、という考えは以前からあるものだとおもいますが、大体そのようなものには十分な根拠が無く、実際には骨格を見ても骨以外のことが十分わかるわけではありません。しかし、「自分の見知ることのできる範囲のことから全体像を類推しようとする」という思考様式は科学的な考え方としては重要なものであると思います。
先日、日曜日に、PCRの開発でノーベル賞を受賞したキャリー・マリスの昔のインタビュー記事を見ていたのですが、彼は「自分は、広範な分野の知識ではなく、狭い分野の知識に注目する。例えば、ある物質の有機化学的な知見はとても狭い知識だが、そこに、この世界のすべての局面とつながる細部が含まれている」というようなことを言っていました。
ノーベル賞受賞者も含めて、研究者のやっているようなことは、特に一研究者のなしうることは非常に狭い範囲のことに過ぎません。しかし、それは生物の機能の、あるいは多くの疾患の病態を説明することにつながる重要な知識につながるものかもしれない、拡大解釈は戒めなければなりませんが、自分の今日見た小さな結果の奥のほうに時折垣間見える生命現象の根幹が見えたような気がする、、、「研究の女神の微笑」といってもいいのかもしれませんが、このようなものにひきつけられて、研究者は研究を続けるのだと思います。

学問への志

小島寛之氏のBlog 「数学の道が閉ざされるとき」
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20081202

小島寛之氏は経済学者だそうですがもとは数学者を目指していた方で、数学エッセイストとしても評価が高いです。
このブログ記事中の「容疑者Xの献身」は、映画は見ませんでしたが原作の本は読みましたし、「文系のための数学教室」も読んだことがありますが、面白い本です。
この方を含め、少なくとも一部の数学者が「どのくらい数学好きであるか」についてはとても興味深いですね。私も大学のときに研究をしたいとは思ってましたが、ここまで思いつめてはいなかったと思います。

現在、医学・生物学分野でも研究者として評価されている方々の多くも、少なくともどこかの時点で猛烈に仕事をした時期があるようです。猛烈に仕事をすれば必ず成功するわけではありませんが、猛烈な努力無しに成果はあがらない、すごくがんばったときに「学問の神様」の微笑む姿がチラッと見えるのでしょう。それが、数学の場合には「下宿の四畳半で、上半身裸のまま汗を手ぬぐいで拭きつつ、すさまじい計算を」みたいなことになるのでしょうから、まあどの分野でもおなじようなことでしょうか。。