低酸素状態が末梢神経の髄鞘化を強め、神経の再生を促進する
研究成果の概要
この研究では、九州大学の大川恭行教授・原田哲仁教授、早稲田大学の合田亘人教授らと協力し、末梢神経に対する低酸素刺激が、シュワン細胞において低酸素誘導因子1α(hypoxia inducible factor1α; HIF1α)の機能を強めることによって髄鞘化を促進し、モデル動物(マウス)体内では、特に神経再生において再生を早める役割があることを初めて示しました。
転写制御因子であるHIF1αが末梢神経における髄鞘化の制御因子としての機能を持つことが、今回初めて明らかになり、髄鞘化制御機構の理解と末梢神経脱髄疾患治療への応用が期待される結果となりました。
研究の背景・経緯
神経細胞は長い突起をもつのが特徴的な細胞形態で、その突起を使って他の細胞との間で情報伝達を行うのが主要な機能です。ヒトでは神経細胞は生まれるまでにほぼ細胞分裂を終え、生直後には神経細胞の数は大人とほとんど同じになっていますが、この段階では機能はまだまだ未熟です。神経細胞は単独では効率的な情報伝達を行うことができず、長い突起を介した素早いシグナル伝搬のためには神経突起の周囲が髄鞘(ミエリン)と呼ばれる構造物により取り巻かれることが必要です。
髄鞘は、中枢神経系(脳・脊髄)では稀突起膠細胞(オリゴデンドロサイト)、末梢神経ではシュワン細胞と呼ばれる細胞によって形成され、いずれの場合もそれぞれの細胞の細胞膜が幾重にも重なってぐるぐる巻きを作ったものが髄鞘です。細胞膜は脂質によって形成されていることから髄鞘は絶縁体として機能し、神経突起は絶縁体によって取り巻かれることによって「跳躍伝導」と呼ばれる速い電気シグナルの伝達が可能となります。この髄鞘は、主に生後発達の過程において、個体を取り巻く多様な環境の影響を受けながら形成が進み、運動の巧緻性などの細胞レベルでの基盤となっているとも考えられています。
中枢神経系の発達過程において、「低酸素状態」がオリゴデンドロサイトによる髄鞘化の発達を促進する作用をもっていることが過去の論文で報告されています。ここでいう「低酸素状態」というのは病気や事故などによって引き起こされるような著しい酸素不足ではなく、通常の酸素環境・定型的な発達の中で起こる組織中の酸素濃度の変動によっておこるものです。一方末梢神経系では、このような生理的に起こる酸素濃度変動の影響は知られていませんでした。
本研究の内容
末梢神経系の発達過程において、シュワン細胞はいくつかの中間的発達段階を経て、髄鞘形成型シュワン細胞に分化します。HIF1αは髄鞘形成型シュワン細胞の前段階の細胞に発現がつよく、髄鞘化を間接的に調節している可能性が考えられました。
HIF1αは、環境中の酸素濃度が通常通りである場合には、タンパクとして作られても分解する機序があるため安定に存在できません。一方、低酸素状態になると、この分解機序が阻害されることにより細胞の中で存在量が増えて機能できるようになります。我々は、マウスの後根神経節(感覚神経細胞とシュワン細胞からなる末梢神経節)を使って作成した細胞培養において神経軸索(神経突起のうち主に情報の出力側となる神経突起)の髄鞘化を観察する実験システムを用いて、低酸素環境下、もしくはHIF1αの分解を投与した場合にはシュワン細胞においてHIF1αが増え、髄鞘化の促進がみられることを示しました(図1)。また、実際に末梢神経組織が生理的な発達過程で低酸素状態になることがあるのかを点酸素検出試薬を用いて検討したところ、発達過程の末梢神経は低酸素環境にさらされる機会があることがわかりました。
HIF1αの生物体内での役割を調べるため、HIF1αを末梢神経のシュワン細胞で欠損させたマウスを作成して末梢神経を観察したところ、末梢神経の発生過程には大きな変化がみられなかった一方、神経傷害後の再生においては、HIF1αを欠損するマウスでは再生が少し遅れて進行することがわかりました。そこで、マウスの末梢神経傷害モデルに対して、HIF1αの分解を阻害する薬物を投与すると、傷害からの回復が促進されました。(図2)
HIF1αは他の遺伝子の転写を制御する転写因子の一つであることから、HIF1αがシュワン細胞でどのような遺伝子の転写を制御することによって髄鞘形成を制御しているのかを検討したところ、予想されたように、髄鞘化との関連が報告されている複数の遺伝子の制御を行っていることが確認できました。
これらの結果から、HIF1αはシュワン細胞において低酸素に応答して髄鞘化関連遺伝子の発現制御を行うことにより、特に神経再生の局面において、髄鞘化促進的に作用していることが明らかとなりました(図3)。
今後の展望
神経損傷の際には、組織の挫滅により血管も破壊されると考えられ、組織は低酸素環境に陥りやすいと考えられることから、今回の結果は、そのような神経傷害後の環境下で神経再生を進めるために生体が獲得したメカニズムなのかもしれません。今後、このメカニズムを神経再生促進に応用するためには、さらに様々な検討が必要です。
図1. HIF1αによる髄鞘化促進効果
マウスの後根神経節(感覚神経細胞とシュワン細胞からなる末梢神経節)を使って作成した細胞培養において神経突起(Neurofilament Mで染色されているオレンジ色の線状の構造)の周囲に形成される髄鞘(Myelin basic proteinで染色されている緑色のセグメント様構造)の数が、HIF1αの分解阻害剤(FG)の投与により増加した。
図2.マウスの末梢神経損傷モデルに対するHIF1α分解阻害剤の再生促進効果
A・B: マウスの坐骨神経損傷モデルを作成し、損傷4日後から34日後までHIF1α分解阻害剤FG4592を隔日投与した結果、損傷後2週以降の末梢神経機能の回復の促進がみられた。
C・D: マウスの坐骨神経損傷モデルを作成し、損傷4日後から7日後まで毎日HIF1α分解阻害剤FG4592を投与した結果、損傷後8日の末梢神経組織中の髄鞘化軸索の本数が増加しているのが観察された。
図3.末梢神経損傷後の再生過程におけるHIF1αの働きの模式図