National Center of Neurology and Psychiatry

疾病研究第七部の目指すもの

 現代社会が直面する大きな問題のひとつに、精神と行動の異常の急増があります。その原因を遺伝的要因だけに求めることは困難であり、脳を取り巻く情報環境の異常が、脳における健全な情報処理を妨げ、さまざまな病理を生み出している可能性を否定することはできません。私たち疾病研究第七部では、脳の情報処理の側面から精神・神経疾患の病態解明と治療法開発を目指す新しい健康・医療戦略〈情報医学・情報医療〉を提唱し、その体系化にむけた基礎研究と臨床研究に取り組んでいます。

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〈情報医学・情報医療〉とは?

 〈情報医学〉という聞き慣れない言葉から、何をイメージするでしょうか。例えばバーチャル・リアリティ技術を用いた遠隔診断や、人工知能による創薬シミュレーションなど、高度情報科学技術を駆使した医学・医療をイメージする人が多いかもしれません。しかし、現在私たちが提唱する〈情報医学〉というフレームワークの中では、生命活動にとっての情報が持つ意味に着目しています。〈生命あるもの〉と単なる物質の寄せ集めとを区別する最大の特徴の一つが、自分と同じコピーをつくるための設計図となる遺伝情報を持っていることです。すなわち、情報とは物質から生命を創り出す上で決定的な要素と言えます。
 こうした生命活動と情報とが高度に一体化しているのが脳です。脳は複雑な情報処理によって心を生み出しますが、それを支えているのは神経細胞のつなぎ目(シナプスなど)で行われる化学反応です。私たちの脳では、物質と情報が〈等価性〉を持っていると言えます。「脳における物質と情報の等価性」を踏まえて現代医学における精神・神経疾患へのさまざまなアプローチを眺めてみると、大きく2つのグループに整理することができます。一つは、「脳は化学反応によって働く臓器である」という切り口からアプローチする手法です。これを仮に〈物質医学〉と呼ぶとすると、現代医学の多くは物質医学に属します。もう一つは、「脳は心を生み出す情報処理装置である」という切り口からアプローチする手法です。これを〈情報医学〉と呼び、特に治療法開発に関連した部分を〈情報医療〉と呼ぶことにします。
 情報医学・情報医療においては、その母体となった〈情報環境学〉の枠組みに従い、何らかの生体内化学反応に対応づける可能性をもったパターンを〈情報〉と定義することにします。ここで言う生体内化学反応とは、①遺伝子制御を含む代謝調節系の活動、②化学的メッセンジャー系(分子通信系)の活動、③シナプス伝達系の活動、のいずれか、またはそれら2つ以上のあらゆる組合せです。そして、情報処理によって得られる効果が、これらの生体内化学反応と対応づけて理解し検証することができるものだけを情報医学・情報医療の対象とすることにします。このように情報現象を物質現象に翻訳可能(トランスレータブル)にすることにより、現代医学が物質次元において確立してきた堅牢な客観性や再現性を、情報次元にも導入することが可能になると考えています。

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情報医学に基づく精神・神経疾患の統合的データ解析 〜デジタルツイン〜

 精神・神経疾患の生物学的基盤としては、ゲノム、遺伝子発現、タンパク、代謝物、神経生理、脳画像など、多階層に渡るビッグデータが収集され、それぞれの階層で関連が指摘されてきました。しかし、これまでの研究では、こうした生物学的データが精神症状を十分に説明するには至っていません。こういった背景に対して、私たちは、脳における情報処理の数理モデルを起点とすることで、多階層の生物学的情報を統合して精神症状を説明することを目指しています。具体的な研究手法としては、計算理論に基づく脳の情報処理プロセスの数理モデル化とデータ駆動的な機械学習アプローチを融合させることで、個人の脳機能を再現する「デジタルツイン」の開発を目指します。デジタルツインのシミュレーションにより、新規治療開発プロセスを大幅に加速させたり、人間には思いつかない新規治療の仮説を提案したり、個別化医療に貢献することが期待されます。研究内容の詳細は、脳病態データサイエンス研究室(第一研究室)のHPをご覧ください。

>>>脳病態データサイエンス研究室の紹介

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情報医学に基づく精神・神経疾患の病態解明 〜計算論的精神医学〜

 脳が外界といかに相互作用し情報を処理しているのか、という情報処理機構としての神経システムの計算原理を探求する研究手法を計算論的アプローチといい、この研究手法を、神経システムの失調としての精神疾患の病態理解・診断・治療法の開発に応用しようとする試みを計算論的精神医学といいます。私たちは、脳の計算原理の仮説を具現化した神経回路モデルを用いて様々な機能的障害をシミュレートし、結果的に起こる神経活動の変化や神経回路に駆動されるロボットの行動変化と、実際の神経・精神疾患で観察される症状との対応を定性的・定量的に考察し、神経・精神疾患の病態メカニズムの理解を試みています。研究内容の詳細は、計算論的精神医学研究室(第二研究室)のHPをご覧ください。

>>>計算論的精神医学研究室の紹介

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情報医学に基づく精神・神経疾患の治療法開発 〜情報環境医療〜

 情報医学・情報医療のコンセプトのもと、人間と情報環境との不整合によって生じているさまざまなストレス性病理に対して、人間の側に手を加えるのではなく、情報環境の側を適正化することによって、病気の治療や予防に寄与する新しい健康・医療戦略「情報環境医療」の確立をめざした研究開発を行っています。人間の遺伝子が進化的に形成された有力な候補地である熱帯雨林の自然環境音や、さまざまな文化圏の楽器演奏音の中には、人間の可聴域上限をこえ耳に聞こえない超高周波成分が豊富に含まれるのに対して、人工的な都市環境音の中にはほとんど含まれていません。しかも、超高周波を豊富に含む音情報は、脳幹、視床、視床下部を含む深部脳とそこから帯状回や前頭前野に拡がる神経ネットワークを活性化して、さまざまな生理・心理・行動反応を導くことが明らかになっており、この現象をハイパーソニック・エフェクトと呼びます。深部脳とそこから拡がる神経ネットワークの異常は、気分障害をはじめとするさまざまな精神・神経疾患の発症と密接な関係があることが知られています。そこで私たちは「情報環境医療」の一つとして、現代都市の情報環境の中に失われた超高周波成分を電子的に補完することによって、気分障害など情報ストレスが原因となるさまざまな病気の治療や予防をおこなうハイパーソニック・セラピーの開発に取り組んでいます。

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質感情報処理に関わる脳機能の解明

 ハイパーソニック・エフェクトの心理反応のひとつとして、人間に聞こえない高い周波数をもった超高周波音が豊富に含まれることにより、音の質感が歴然と高まることが挙げられます。一方、人間の鼓膜を介した(気導)聴覚神経系は、その機械的特性により20kHz以上の空気振動を伝えることができないことが広く知られています。私たちは、聴こえない超高周波成分を耳だけに呈示したときにはハイパーソニックは出現せず、体表面に呈示したときにはじめて効果が現れることを明らかにしました。こうした知見をふまえて、超高周波音がどのように身体で受容・伝達され、脳の報酬系と呼ばれる感性・情動神経系を活性化し、快さや美しさの高まりといった感性的な質感認知の向上を産み出すのか、その生体メカニズムを明らかにするとともに、感覚情報の物理的な信号構造と質感情報処理との関連を明らかにする研究に取り組んでいます。

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「阿吽の呼吸」の神経基盤の解明

 地球上の多くの文化圏には、複数の演奏者が指揮者やメトロノームなどの視覚的手がかりなしに「阿吽の呼吸」「以心伝心」など言語化困難な超知覚情報で自律的に同期をとり、一糸乱れぬ見事な演奏を実現する表現芸術が存在します。その実現には複数個体の心身制御機能が高精度で同期する必要があります。私たちは、その典型例としてインドネシア・バリ島の祭祀祝祭芸能「ケチャ」に注目し、「阿吽の呼吸」による同期演奏の背景にある生理心理メカニズムを探る研究に取り組んでいます。これまでに、複数演者から自発脳波を同時計測して解析した結果、指揮者なしで高速の16ビートの合唱を演奏中および演奏後には自発脳波の同期性が高まることを示しました。この研究を深めることで、「阿吽の呼吸」や「以心伝心」など、従来の認知や意識の研究とは一線を画する超知覚情報による無意識領域でのコミュニケーションの生理心理学的基盤を明らかにすることを目指しています。

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新しい脳構造機能診断法と装置の開発

 精神疾患に対する治療効果を客観的に評価するためには、本人の主観的な評価だけでなく、脳の活動を客観的に計測する必要があります。しかし、PETやMRIのような大型画像機器は、ストレスフルな計測環境が患者に強い拘束感を与え、検査自体が症状に悪影響を及ぼす可能性が濃厚です。また、近赤外線光トポグラフィは簡便な計測手法ですが、脳幹など脳深部の活動を捉えることができません。そこで、ストレスや拘束感を与えず簡便に計測できる脳波を利用して脳深部の活性を評価する手法と、それを応用した深部脳機能計測装置の開発にとりくんでいます。また、座ったままで計測が可能なPET-Hatを開発し、その実用化に取り組んでいます。巨大な装置に頭を固定するのではなく、頭の動きに合わせて装置が動くため、拘束感が少なく開放的なPET装置として期待を集めています。

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