脳の「予測する仕組み」でロボットが複数の介護動作を学習
―脳科学理論から次世代Physical AIへの道を拓く―
近年、人工知能(AI)は急速に発展していますが、人間のように1つの知能で多様な作業へ柔軟に適応することは依然として大きな課題です。人間は視覚や身体感覚など膨大な情報を統合しながら、状況に応じてさまざまな作業を切り替えています。その背景にある脳の計算原理として近年注目されているのが、「予測処理(Predictive Processing)」(自由エネルギー原理)[1,2]です。このたび、国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター(NCNP)神経研究所疾病研究第7部の出井勇人特任研究室長、山下祐一室長、早稲田大学の三宅太文次席研究員、尾形哲也教授らの研究グループは、この脳理論に基づいたAIモデルを多自由度ヒューマノイドロボットに実装し、高次元の視覚・固有受容感覚(身体感覚)を統合しながら、複数の介護動作を学習できることを実証しました。
さらに本研究では、①視覚情報が曖昧でも身体感覚から状況を推定する、②動作の切り替えを自律的に学習する、③視覚的に遮蔽された対象を推定する、④状況に応じた不確実性の変化を認知する、といった、人間の脳で知られる情報処理特性が、特別なプログラムを与えなくてもAIモデル内部に形成されることを確認しました。本成果は、予測処理がロボット知能を実現する一般的な計算原理となり得ることを示したものであり、介護ロボットだけでなく、多様な環境で柔軟に働く次世代AIの実現や、人間の知能原理の理解につながることが期待されます。
本研究成果は、日本時間2026年8月15日午前3時(米国東部時間2026年8月14日午後2時)に、国際学術雑誌「Science Advances」に掲載されました。
研究の背景
人間は一つの脳で、視覚・身体感覚・触覚など膨大な感覚情報を統合しながら、多様な環境や作業へ柔軟に適応しています。このような知能がどのような計算原理で実現されているのかは、脳科学と人工知能の共通課題です。その有力な理論として近年注目されているのが「予測処理(Predictive Processing)」(自由エネルギー原理)[1,2]です。この理論では、脳は外界からの情報を受け身で処理するのではなく、自ら未来の感覚入力を予測し、予測と実際の感覚との差(予測誤差)を最小化することで知覚・行動・学習を行うと考えられています。しかし、この理論が実際にロボットのような高次元・多感覚・マルチタスク環境でも有効に機能するかは十分に検証されていませんでした。本研究では、予測処理が高次元・多感覚・マルチタスク環境でも有効に機能するかを検証する対象として、ロボットによる介護タスクの学習に着目しました。介護現場では世界的な高齢化に伴う人手不足が深刻化しており、喫緊に解決すべき社会課題となっています。一方で、体位変換や清拭などの作業では、対象者や環境の変化に応じて視覚や身体感覚を統合しながら柔軟に行動を切り替える必要があります。このような介護場面を想定した動作生成は、実世界における適応的知能を検証する上で最も挑戦的な課題の一つです。
研究の概要
本研究では、予測処理に基づく新しいAIモデル「Scalable PV-RNN」[3]を開発し、この理論が高次元マルチタスク知能を実現できるかを検証しました。人の上半身の身体機構を模し、人との接触を伴う動作を行うために開発された多自由度ヒューマノイドロボットAIRECに、Scalable PV-RNNを実装し、その有効性を評価しました。1.予測処理だけで高次元情報を処理し、複数の介護動作を学習(図1)
開発したAIは、視覚画像と身体感覚から得られる約3万次元の情報を直接統合し、未来の感覚を予測しながら学習します。従来のロボットAIで一般的であった特徴抽出や次元削減、注意機構などを用いることなく、「予測誤差を最小化する」という単一の計算原理のみで複雑な多感覚情報を統合できることを示しました。実験では、ヒューマノイドロボットAIRECを遠隔操作して取得したデータを用い、マネキンに対する「体位変換」と「清拭」という性質の大きく異なる2つの介護動作を学習させました。体位変換は重い人体を支える力学的に複雑な作業であり、清拭はタオルという柔軟物体を扱う作業です。提案AIモデルが、これら異なる介護動作を同時に学習・予測できることを確認しました。これは、タスクごとに別々のAIを設計する従来手法とは異なり、単一の脳型AIが多様な作業へ適応できる可能性を示しています。
B 使用したヒューマノイドロボット(AIREC)
C 学習した2種類の介護動作タスクの動作遷移(体位変換、清拭)
2.人間に似た情報統合機能が創発(図2)
さらに、AIモデル内部を解析した結果、人間の脳で知られている情報処理特性が形成されていることを確認しました。AIは動作全体と細かな運動を階層的に表現し、作業の切り替えを自律的に表現するとともに、視界から隠れた対象を推定し、視覚情報が不十分な状況では固有受容感覚を利用して補完するといった特性を示しました。また、タスクごとの不確実性を内部で推定しながら柔軟に処理を切り替えることも確認されました。これらの機能は個別に設計したものではなく、予測処理に基づく学習のみから自然に形成されたものであり、本理論が実世界の高次元・多感覚知能を支える計算原理となり得ることを示しています。
B 固有受容感覚入力が視覚予測誤差に与える影響:固有受容感覚入力がある条件(赤)では、固有受容感覚入力がない条件(青)に比べて、視覚予測誤差が低くなっていることがわかる
今後の展望
本研究はシミュレーションによる検証ですが、将来的には実際のロボット制御へ応用できる計算基盤になることが期待されます。介護だけでなく、物流、災害対応、製造、家庭支援など、多様な環境で複数の作業を柔軟に遂行する次世代ロボットへの応用が期待されます。さらに本研究は、単なるロボットAIの開発にとどまらず、「人間の脳はどのような計算原理で柔軟な知能を実現しているのか」という脳科学の根本的な問いにも新しい知見を与える成果です。脳科学から得られた理論をAIへ応用し、そのAIを通じて再び脳の計算原理を検証するという、新しい脳科学とAI研究の循環を加速することが期待されます。
用語の説明
[1] 予測処理(Predictive Processing):脳は外界からの情報を受け身で処理するのではなく、未来の感覚をあらかじめ予測し、その予測と実際の感覚との差(予測誤差)を最小化することで知覚・行動・学習を行うという脳科学の理論です。[2] 自由エネルギー原理:予測処理を数理的に定式化した理論で、感覚の予測誤差と過去の経験の影響によって定まる変分自由エネルギーと呼ばれる数量の最小化として知覚・行動・学習を説明します。現在、脳科学や人工知能分野で広く研究されています。
[3] PV-RNN(Predictive-coding-inspired Variational Recurrent Neural Network):自由エネルギー原理に基づいて開発された時系列生成AIです。本研究では、高次元の視覚情報と身体感覚を統合できるように予測生成能力を向上させ(Scalable PV-RNN)、複数の介護動作を学習できることを示しました。
原著論文情報
・論文名:Predictive processing as a scalable computational principle for embodied multitask intelligence・著者:Hayato Idei, Tamon Miyake, Tetsuya Ogata, Yuichi Yamashita
・掲載誌: Science Advances
・doi: 10.1126/sciadv.aed7511
研究経費
本研究は、科学技術振興機構(JST)ACT-X(JPMJAX24C2)、Moonshot R&D (JPMJMS2031)、CREST(JPMJCR21P4)、日本医療研究開発機構(AMED)脳神経科学統合プログラム(課題名:精神障害の新規治療介入法開発のためのメゾスコピックレベルデジタル脳モデルの開発)、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業(JP24H0007, JP24K0049, JP25H01173)、および国立精神・神経医療研究センター精神・神経疾患研究開発費(6-9, 7-9)の支援を受けて行われました。>神経研究所
https://www.ncnp.go.jp/neuroscience/index.php
>疾病研究第七部
https://www.ncnp.go.jp/nin/guide/r7/




